もう一つの物語の世界へ入っていく『あいたくてききたくて旅に出る』

小野和子『あいたくてききたくて旅に出る』を読んだ。

発行しているPUMPQUAKESというのは聞かない名前だと思ったら、本書が刊行第一作であるという。

本書には、宮城県を中心に東北の民話を尋ね歩いてきた「民話採訪者」小野和子氏が、民話とその「採訪」にまつわるこもごもが収められている。いずれも70年代から80年代にかけての時期のエピソードである。

本書を読んでいると、この時期に東北の民話を聞いてまわる人がいたということが今となっては奇跡のような巡りあわせであったのだと思えてならなかった。

民話は子どものもの、というだけではない

民話には「子どもに読んで聞かせるもの」というイメージがあった。たぶん、その認識は広く共有されているものと思う。

形にならないものであるし、子どものものであるから、民俗学のなかでも昔話や民話の研究というのは進んでいない。

しかし、たとえ、民話が子どもに読み聞かせるものであったとしても、民話は子どもだけのものではない。

語っているのは、かつて民話を語り聞かされた子どもだったのだ。そこには語り手の人生や状況が抜きがたく反映されている。

民話は昔話だけではない

意外だったのは、民話といっても必ずしも「昔々」からはじまる時代劇ばかりではないということだ。

75年前の戦争の戦争や北朝鮮の拉致、「このあいだの団体旅行」でさえ民話として語られうる。

貧困、東北という土地への差別と抵抗の歴史、女性差別、職業差別、そして、戦争。

民話が無形であり、口から口へと語り語られてきたものであるからこそ、伝えられてきたものがある。

もちろん、伝えられてこなかったものもある。

本書の中には、あまりにも苦労をしすぎて一言も話さなくなった老婆が出てくる。

語られていないものの向こう側に何があったのか。

豊かさ、と一言では表せない。そこにあるものの重たさに、読者としてでさえ打ちのめされる。

民話の世界にテレビがやってきた。

本書からは民話は子どものもの、だけではない、ということを教えられたが、同時に、民話と子どもの距離が離れているということも教えられた。

いまや民話をめぐる状況はかなり深刻だ。

本書の中でも度々「テレビがきてから、昔ばなしはぶん投げてしめぇすた」「いまは、おらの孫だって聞かねえよ。テレビの方がいいってよ」などと語られる。

今ならテレビゲームに夢中、スマホに夢中、ということになるのだろうか。

もうひとつの世界の世界へと入っていく場

「長いこと語ったことも語られたことも」ないうちに、30年経ち、40年が経った。

さらに東日本大震災でコミュニティが丸ごと大打撃を受け、かつて語られた民話の多くも消え去り、民話を語る人というのもだいぶ減ってしまっているのではないか。

著者は「《聞く》ということは、全身で語ってくださる方のもとへ《訪う》こと」と書いている。

語り手と聞き手が「ときには火花を散らしながら、もう一つの物語の世界へ入っていくことにより、深くつながってゆく」という体験は、テレビのような一方通行のマス・コミュニケーションには望めないものだ。

今日に、もう一つの物語の世界を立ち上がらせる、とはどういうことなのか。そもそも、わたしたちはどういう世界に住んでいるのか。考えさせられた。