『統一後のドイツ』を読んだ。

「オスタルジー」という言葉を知ったのは、2000年前後の『クローズアップ現代』だったか。

東を意味する「Ost」とノスタルジーの合成語。ベルリンの壁崩壊から10年、急速な「西側化」が進む旧東ドイツ地域で、「共産主義体制も決して悪くなかった」という心情が醸成されている。

そんな文脈で紹介されていた記憶がある。


本書『統一後のドイツ』が提示するデータは残酷だ。

家計の豊かさ、大企業の本社、あるいはテニスコートの数……。

これらの指標をもとに地図を色分けすると、東西ドイツの輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。

統一から30年以上が経過してもなお、「幻の国境が、この統一国家を貫いている」のだ。

著者は、東ドイツでは市民と国家の間にあった中間的な構造が「文字通り一夜にして姿を消し、一種の真空地帯が残された」と指摘する。

そして、この空洞は右翼アクターにとってのフロンティアとなった。

今や有権者は「気まぐれな気分によって前後に揺れ動く移動砂丘のような存在」となり、「静かな中間層は次第に政治の競技場から退き」、「急進的勢力に場を委ねることになる」。

どこかで見たことのある風景ではないだろうか。


読みながら、ふと考えることがあった。1945年から1990年までの45年間で、民族の中にこれほど決定的な違いが生じるものなのだろうか。

だが、翻って日本を考えてみると、焼け野原だった1945年の日本と、バブル経済の頂点にあった1990年の日本。それはもはや「別の国」と言えるほど、人々の価値観も生活様式も変貌している。

さらに、バブル崩壊から今日に至るまでの日本社会を見れば、数十年という歳月は人や社会や文化を変えるのに充分な歳月だとも言えるだろう。

そして、同じ期間にドイツで進行していたのは、統一国家内における〈東〉という異質さの固着だった。

それを異質にしていたのは、浸透していく〈西〉そのものだったのだ。


今さら1989年をやり直すことはできない。しかし、分断の固着ではなく、この危機を乗り越えるには市民参加の政体が必要なのだ、と著者は考えている。どのような国なら生きるに値するのか。それは決してドイツだけの話ではない。面白かった。