小峰さんの哲学実践ツイートに思ったこと

Twitterでの小峰ひずみさんのTweetを読んで思ったこと。

はじめに

小峰さんが、京都大学「ニセNF」で何か話す、ワークショップをあげるというので、こういうツイートをしていた。

識字教育は部落の生活向上と直結していた。では、誰もが読み書きが可能である現代における「識字教育」はいったい何にあたるのか?(識字教育は日本語教育とは異なります)。それが今回の発表の裏テーマです。みなさんにご意見を募りたいと思います。

— 小峰ひずみ (@cococooperativ1) November 17, 2020

おもしろそうだ。

気分が良くて(最近、浮き沈みが激しい)、足が向いたら、ぜひとも行ってみたい。

ただ、もし、当日、行けたとして、そこで意見できるとも限らないし、よしんば行けたとして、そこで意見がまとまるとも思えない。

だから、あらかじめ、いま、思ったことを書きとどめておきたい。

小峰さんの問題意識の所在

誰もが読み書きが可能である現代における「識字教育」はいったい何にあたるのか?(識字教育は日本語教育とは異なります)

ここから小峰さんにはこういう問題意識があると解釈した。

そのうえで、部落解放のロジックではない、もっと広範な識字教育とはなにか、ということを問おうとしている、と。

この解釈自体、シッタカなトンチンカンかもしれないが、それはさて措いておく。

話し言葉と書き言葉

まず、思うのは、現代日本のような社会で、生活を向上せしめる読み書きとはいかなるものか、ということだ。

分業の進んでいる社会では、それだけ、そこそこそれぞれの言葉も分化していく。

かつての身分制では士分の言葉と町民の言葉と農耕民の言葉はまったく違ったものであったし、それこそ被差別民のそれはほかの階層の人が聞いてそれとわかるものだったろう。

識字教育と標準語の普及はそこを突破するものとして期待されたし、ある程度それは実現した。

ただ、今日では、言葉の分化はその上でのさらに高度に、専門的になっているのではないか。

農家には農家の、会社員には会社員の、学生には学生の、公務員には公務員の専門的な言葉の世界がある。

もちろん、その一方では自分とまったく違う人たちと通じる言葉ももたねばならない。

繰り返しになるが、識字=書き言葉の普及はそれを可能にした。

しかし、生活の中では圧倒的に話し言葉が優位である。

話し言葉の優位は、今や、かつては書き言葉の世界であった「メディア」を席巻しているが、それはさておく。

話し言葉の性質

話し手はまず話し相手に話を聴いてもらわないと話し言葉を受け取ってもらうことができない。

話し相手を必要としない独り言もあるが、コミュニケーションの手段としての話し言葉を考えていくと、それは話し手と話し相手との関係性に依存しているということがいえる。

耳を傾けてくれない話し相手、注意をひく必要のある話し相手には、身を乗り出すように耳を傾ける熱心な相手、静かに自分の言葉を待ってくれている相手とはちがう言葉の選び方や態度のとり方をする。

話し相手もまた相手の声色や態勢を考慮して話し言葉を受け取っている。

こうした「現に相手が居る」状態を必ずしも想定しなくとも良い書き言葉以上に、話し言葉はいろいろなものに支えられて成立している。

書き言葉の特徴

小峰さんの書いていることは割とワケワカメ(すみません)だが、最近の主張はこのようなものが多いと受け取っている。

(ソウイウハナシデハナイといわれたら申し訳ないが)こうした主張には同意する。

ただ、識字教育とは書き言葉の話だと思う。

書き言葉には、話し言葉とは違う特徴がある。

こうした特徴は、話し言葉とは違った意味を書き言葉に与えることになる。

対話が大切だということと、哲学対話の有用性

こうした話のなかで、「哲学対話だ」という話になるとちょっとツラい。

思うところ(物見雄山)があって「哲学カフェ」にちょこちょこ顔を出していた時期があった。

たしかに面白い。参加して頭をまわしている感覚が得られる。しかし、それだけという感じもまた否めなかった。

結局、そこで語られるのは、自分の問題ではない、他人事の言葉遊びのような印象を受ける。

誰かの発言を受けて、自らも何かを話す。

そこには、ある意味では哲学カフェにはしりとりに近い楽しみがあるのかも知れない。

まあ、そういうこというイマゼキがひねくれている、ということは認める。

悶問(仮)を通じて思ったこと

悶問(仮)と称する集まりを主宰している。初回が2007年だから、もう13年になる。

自分の書いた「文章」を持ち寄って発表し、参加者相互に「感想」(批評ではない)を言い合う、という繰り返しをやっている。

勧誘や告知を通じて感じるのは、ヒトは「何を書いたら良いのかわからない」⇒「何を書いたら許されるのか」という心配を持ちがちなんだ、ということだ。

まるで、その場にはその場で許されているテーマのリストのようなものがあって、それから逸脱することは許されないとでもいうように。

もしかしたら、ニセNFをやる京大や、小峰さんのいた阪大は別なのかもしれない。われら吹いたら飛ぶような無名の私立大学出身者が特殊なだけなのかもしれない。前者は気に食わないが、後者はそうであってほしいと思う気持ちもある。

これまでも、これからも、多くのヒトはこういう境遇に置かれているのではないだろうか。

ふだん会わない人たちに対して、自分自身の書いてきたものを読んでもらう、読んで聞かせる、感想巷間をしていく、という場はほとんどない。

今日の識字教育とは?

もちろん、個人差はとても大きい。

ただ、ほんとうは書き言葉はとても自由なはずなのに、自分の書き言葉をそのまま肯定される機会にほとんど恵まれないまま大人になってしまった人は多いのではないか、とも思う。そこでは同調圧力と権威主義の聞こえざる声が場を支配していたのではないか。

識字教育とは立身出世の道具であった一面もありますが、己の言葉を書くことで見つめ直し、また、誰かに読んでもらうことで広めるためのものでもあった。そこには読み手への信頼があったはずだ。その信頼をわれわれは教育を通じてどれだけ得られたのだろうか。教育以外のところでどれだけ獲得していけるのだろうか。

まずは、信頼を育むところからはじめよう。そのためにはどうするべきかと考えていこう。

それがなければ、意見の表明も、正当な批判も、対等な対話もしえないのではないか。

おわりに

思った以上に長文になってしまったので、Twitter上にリプ重ねていくのも気がひけた。

はじめは連続リプを想定したものを書き直して記事とした。

手前味噌ではあるが、悶問(仮)は識字教育のひとつの実験といえようが、小峰さんの展開する議論がどんなものになるか興味をそそられる。

得るものはいただき、真似できるものは真似していきたい。