長崎原爆忌

アメリカは原子爆弾を東洋有数の教会の上に落としたのだと言ったら、アメリカの原爆投下は正しかったと思っている多くのアメリカ人も、きっと、嫌な顔をするだろう1

なにせ半分近くのアメリカ人は聖書にある「創造論」が正しいのだと未だに信じているのだから2

そうして、こう言い返すに違いない。

  1. あのとき原爆を投下しなければ、犠牲はさらに増大していた。
  2. 日本人は広島や長崎の悲劇をうまくつかって加害責任をカモフラージュをはかっているだけなのではないか。

これに再反論することは難しい。


アメリカが原爆を落としていなかったら、おそらく、日本は本土決戦に突入していたのだろう。

その場合、アメリカ軍の損害は百万単位になった、というのは。広島と長崎の犠牲者があまりに大きすぎたために考案された詭弁だと思う。

なるほど、日本軍は硫黄島や沖縄ではアメリカの想定を大きく上回る出血を強いた。

しかし、小銃一丁さえ事欠き、且つ、これまで兵隊にならなかった男子をも根こそぎ動員しても員数すら揃えられない疲弊・弱体化した日本軍が、硫黄島や沖縄の戦訓を踏まえ、さらに徹底した準備攻撃を行うであろう米軍に対して、果たして百万単位の損害を与えることができたのだろうか。

それこそ、願望、幻想のたぐいだろう。

ただし、視点を米兵ではなく、日本人に移してみると、話は異なってくる。

本土が戦場となったドイツでは四百万人の軍人と二百五十万人の市民が亡くなった。ドイツ国民の十人に一人が犠牲になった計算になる。

本土決戦を避けられた日本では二百万人の軍人と百万人の市民が亡くなったが、これは日本人全体の4%ほどにとどまる。

本土決戦となれば、日本人の死者は百万人単位で増えたのではないか。


玉音放送では天皇は次のように言った。

朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

要するに「我が軍も人民も頑張ったが、戦況は良くならかったばかりか、敵は残虐な新兵器を用いて無実の人々を虐殺するに至り、このまま戦えば民族の滅亡ひいては人類の文明の破滅をも呼び込みかねない」と言っている。

もちろん、レトリックなのかもしれない。しかし、このようなレトリックを弄さなければ、日本人は敗戦を受け入れられなかった。

そして、このレトリックは戦後も日本人の戦争観の中心に据えられていたのではないか。

わたしたちは、こんな悲惨な目にあった被害者として、戦争に反対し、核廃絶を訴えるんだ。そういうとき、日本人の加害者性というものはどこかへ行ってしまう。


当然、原爆の下に置かれた人たちはひとたまりもなかった。

あるいは、一億総懺悔、日本人の全員に相応の責任はあったかもしれないが、だからといって、広島や長崎の人たちだけが地獄の猛火に焼かれなければならないという道理はなかった。

戦争を終わらせられずに原爆投下を招いた日本の帝国主義も、すべて了解の上で原爆を投下して幾十万の市民を虐殺した米国の帝国主義も、非難されなければならない。


  1. 国民の過半数が原爆投下を支持するアメリカ、10歳少女ヒデコの被爆でも変わらない意識(Wedge) - Yahoo!ニュース ↩︎

  2. 米国で進化論を信じる人が過半数超え:日経ビジネス電子版 ↩︎